峠の火遊びから世界の競技へ。ドリフトの“現在”を体現するGRスープラを高解像度でスケールダウン【model cars】

ひと気のない山道や峠、埠頭や市場の路上で夜な夜な繰広げられる乱痴気騒ぎ――。1980年代前半、ドリフトの創成期をひと言で表せばそんな感じだろうか。けたたましいタイヤのスキール音と改造されたマフラーが放つ轟音、そしてセンターラインなどお構いなしにクルマを縦横無尽に横滑りさせながら我が物顔で走らせる。

次第にギャラリーと呼ばれる見学客まで現れ、パフォーマンスと危険性が背中合わせで過熱していく。

当初は“ローリング族”とも呼ばれ、市街で爆音をまき散らす暴走族とは別のアウトロー集団として社会問題化していった。その対策として、全国の山道、峠道のコーナー部分は段差のついた特殊舗装が施され、センターラインには踏めばタイヤを裂傷する可能性もある反射板付きの道路鋲が打ち込まれるようになった。

しかし、それをもろともせず、ローリング族は増加傾向の一途をたどる。1990年代中盤にはアメリカからの圧力もあり、日本の自動車に関する数々の規制が緩和され、エンジンのパワーアップや外観のドレスアップなど、それまで違法とされた自動車の改造が合法的に行えるようになったこともあり、その改造の成果を試さんとばかりに、全国の峠が“頭文字D化”したのである。

ところが、車両のパフォーマンスアップが顕著となったことで、さすがに公道でのドリフトは危険、と判断した走り屋も多く、ミニサーキットを手始めに、クローズドコースでドリフト走行を楽しむ派も増えつつあった。

そうして、かつてはただの目立ちたがりの暴走行為と紙一重だったドリフトが競技化しいく土台が形成されていき、2000年にはついにドリフト走行の技術をサーキットで競う『D1グランプリ(全日本プロドリフト選手権)』が発足し、2024年からはJAFの日本選手権にドリフト競技が加わって『JAF 日本ドリフト選手権 D1グランプリシリーズ』にまで昇格。

さらにアメリカでは2004年から、日本のドリフト・ムーブメントにインスパイアされる形で、『フォーミュラ・ドリフト』なるカテゴリーが生まれ、現在も高い人気を誇っている。こうした流れは、ストリートカルチャーだったスケボーやブレイクダンスがオリンピック競技になった経緯にも近いかもしれない。

【次ページ】日本のチューニングカー文化のパイオニア的存在…!

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