映画監督・平野勝之「暮らしのアナログ物語」【9】花瓶~木も泣けばいいのに。

■わしゃわしゃのお裾分け

僕は毎年、春になるとそのへんの路上にある花を摘んできたり、花屋で花を買ってきて花瓶に入れ、桜の時期なら桜餅、子供の日が近づいたら柏餅を用意し、お茶を入れて眺めて楽しむようになった。

春から初夏にかけては緑の樹木や楽しい花が、わしゃわしゃと飛び出して来るので、そのエネルギーを「お裾分けしてもらおう」という気持ちが働くのかもしれない。

そもそも僕は花には関心の無い人間だった。

人からプレゼントされた事はあるけれど、自分で花を買ったり摘んだりという事はなかった。

しかし、5年ほど前に知人から大きな見事な紫陽花をいただいてから変わった。

なんという種類か忘れたが、その紫陽花が自分の好みだったせいもあり、部屋に飾った時、なんだか無性に心が落ち着くのを感じたのだ。

何だか、花が大切なもののように思えてきて、以来、自転車をどこかに停車する時も花を踏んづけてないか?気を使うようになった。

 

花瓶にも目がいくようになり、時々、気に入ったものを見つけては購入し、部屋の各所に花と共に飾るようになった。

 

■エネルギーのお裾分けを入れる花瓶

僕の持ってる花瓶は古い物も多く、サイズも一輪挿しから、そこそこの容量のものまで数種類。

それほど高価なものはなく、どれもお気に入りで長年愛用している。

一番大きいものは南フランスの古いもので、おおらかなポッテリした形、見るからにしあわせそうな佇まいで、脇の突起部分が、なぜかバンザイして「ひゃーー!!」と言ってるように見えるため「ひゃーさん」と呼んでいる(笑)

机の上にペンギンと共に常備しているのはノルウェイーの古いピューター製のもので、なんとも言えない美しいカーブが気に入っている。

この花瓶に花を入れ下にペンギンを置くと、ペンギンが花を見上げて「人生とは無情なり…」とかなんとか考えながら哲学しているように見えて、なかなかシブい光景となり、心がニヤニヤするのでセットで使っている。

パステルグリーンのガラスの細長いものは、これまた古い日本製のもので、アールデコを真似して失敗したみたいな形(笑)が妙に安っぽいんだけど、昔の日本のおおらかさを感じて、これまた気に入っている。

花は必ずしも花瓶に挿さなくてもよいと思う。僕は最近、お気に入りの小皿に水を張り、桜やその他花びら、葉っぱなどを浮かべて楽しんでいる。

また、一般的だけど、専用の花瓶ではなく空の瓶なども活用できる。僕は昔のイギリスの薬瓶などに小さな花を挿している。昔のガラス瓶は魅力的で気泡があったり形がいびつで不揃いだったりと、とても楽しく見ていて飽きがこない。

蝶ネクタイをしたクマの空き瓶は、外国の何かのお菓子が入っていた瓶なんだけど、どんなお菓子だったか?は忘れてしまった。

かわいらしくて、なんとなく捨てる気がせず取っておいたのだが、いつの間にか花瓶に変身して、時折僕の目を楽しませてくれるようになった。

部屋でこんなふうに花と一緒にいて心が落ち着くというのは、花、または植物
と人間は、大昔から密接な関係があるのだろうな…と自然に思えてくる。

花は儚く、あまり長くは楽しめないけど、自然界の樹木、山や木々などから比べたら人間の生命も長くはないと思う。木や土などの土台に僅かな間、花を咲かせ散っていくその様子を見ていると、花と人間は少し似てるな、と思えてきてしまう。

そんな似た者同士だから本能的に花を身近に置こうとするのだろうか…?

 

■生きている樹木

この写真はうちのマンションの脇に根ざしている木である。

僕の部屋のベランダの真ん前にあって、毎年、葉っぱがもじゃもじゃ出てくるのが楽しみだったのだが、ついこの前、木の上部の途中から切られてしまった。かなりショックだった。

この木がうちのマンションを守ってくれている印象があったからだ。

そもそも僕がこのマンションに引っ越してきた大きな理由に、このマンションを覆うように生えていた樹木の存在があったからだ。

僕は自転車のキャンプ旅でも、キャンプ地を探す時、お気に入りの樹木があるか?が基準のひとつになっている。

テントをたてる時、本能的に大きな木の周辺に張る場合が多いのだ。

だから人の住む環境にも植物や樹木の存在が必要だと感じている。

都心ならなおさらで、なるべく樹木の環境がある方が望ましい。

お寺や神社などが樹木に覆われているのには理由があると思う。

お墓も樹木に囲まれている場所が多いのは、人も土や樹木と共にあり最後は帰っていく場所だからだと思っている。

 

うちに限らず、都心などの街を見ていると、人の都合で勝手に切断されている樹木のなんと多い事だろう…。

 

人よりはるかに長い時間を生きている樹木は大切に扱われるべきで、くだらない理由で切ってはならないと思う。本来は人の方が樹木に合わせて謙虚にすべきで、自然現象の方がちょっと威張ってるぐらいがちょうどいいのだ。

そして、うちのマンションの木を切断した直後、作業を担当した職人が目の病気にかかった…。職人さん自体は何も悪くはないが、僕には罰が当たったように思えた。

この話を聞いて、ある事を思い出した。

 

■泣く木

以前、北海道を自転車旅行中、占冠村のトマムという場所に「泣く木」があるというので見に行った事がある。

何やら道路の拡張工事のため、そのニレの木を切断しようとすると「泣く」というのだ。結局、泣くので現場の人が切断する事ができず、そのままになったという。

北海道にはもうひとつ、同じく「泣く木」があったようで、そちらのエピソードは切断に関わる人間に死者が続出したりと穏やかではない。詳しい事は避けるが、こういう不思議な現象は僕的には密かに大歓迎だ。

「泣く木」はほとんど誰も通らないような道にひっそりと佇んでいた。

僕はしばらくその木の下に自転車を置き休憩した。

よく見るとのこぎりを当てた跡がある。

「よかったね」と声をかけてあげた。

自分の部屋で花瓶に挿した花を見ていると、こんな事を思い出してしまう。

うちの切られた木も脇から葉っぱを出して再生しようとしている。

切られそうになったら、世界中の木は泣けばいいのに、と、思った。

 


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(文・写真/平野勝之)

ひらのかつゆき/映画監督、作家

1964年生まれ。16歳『ある事件簿』でマンガ家デビュー。18歳から自主映画制作を始める。20歳の時に長編8ミリ映画『狂った触覚』で1985年度ぴあフィルムフェスティバル」初入選以降、3年連続入選。AV監督としても話題作を手掛ける。代表的な映画監督作品として『監督失格』(2011)『青春100キロ』(2016)など。

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