ロードスターの核心:マツダ 山本修弘(3)名将はいかにして生まれたか?

 山本少年の未来を決めたロータリーエンジン

--山本さんがマツダへ入社された経緯についてお聞かせ下さい。

山本:きっかけは、幼少期の原体験にまでさかのぼります。親戚のお兄さんがバイクに乗せてくれたんです。燃料タンクの上に座り、ハンドルにつかまりました。すると、顔に風がバンバン当たる。風を切って走るのが新鮮でした。

--ロードスターのオープンエアにつながるようなエピソードですね。

山本:偶然とは思えませんね。そして、小学校へ上がると自転車に乗るようになりました。と同時に、実家が農家だったので、耕運機を動かしたり、機械を使ったりする楽しさを覚えるうちに、今度は「どうやってエンジンは動くのだろう?」と興味を持ったわけです。

実家にあった軽トラックのエアクリーナーを外し、キャブレターを外して、とやって…。後から父に叱られましたね(笑)。

そんな私に学校の先生が、ボロボロのオートバイをプレゼントしてくれたんです。2サイクルエンジンのバイクでした。シリンダー外してピストンに触れたりして…。それはもう、学校から帰るのが楽しみで仕方ありませんでしたよ。

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--どんどんエンジニアとしての素地が育まれていったのですね。

山本:決定打は中学2年生の時でした。当時の東洋工業(後のマツダ)が、世界で初めてロータリーエンジンを開発した、というニュースで流れてきたんです。すぐに東洋工業へはがきを送り『ロータリーエンジンの知識』という冊子をもらいました。これが決め手となり「東洋工業でロータリーエンジンを開発する仕事に就く!」と決めたんです。

--中学2年生の時に将来を決めた? 驚きです。

山本:そして、高知工業高等学校時代は、サッカー部に入りました。全国大会にまで勝ち進んだんですが、1回戦で敗退しまして…。

でも、この部活動を通じて、皆で共通の目標を共有し、それぞれのポジションで各自の役割や責任を果たすことの大切さを学びました。どこかひとつでも弱いポジションがあると、そこでチームの力が決まってしまうんです。

--エンジニアになることを決意されていた山本さんにとっては、偶然にも、開発のチームワークを学ばれていたようなものですね。

山本:当時はサッカーに夢中になっていたんですが、もちろん、オートバイやクルマへの興味も尽きていませんでした。16歳でオートバイの免許を取り、親にねだってオートバイを買ってもらいました。

18歳になるとクルマの免許を取り、知り合いからホンダの「N360」を買ったんです。これがよく壊れて、解体屋のスクラップから部品を取り出しては、自分で交換したり、修理したりしていたのを覚えています。

そんな高校時代の先輩の中に、東洋工業で働いてる方がいらしたんです。その先輩にアドバイスなどをもらいながら、東洋工業に入社することが叶ったわけです。

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