トヨタのスポーツカー「GR」のご先祖!?レース仕様“ヨタハチ”が現代に甦った理由

■エンジニアに各種ノウハウを伝えるレーシング“ヨタハチ”

80年を超える歴史を有するトヨタですから、そのヒストリーを彩る名車をひと口に語ることは難しいかもしれません。しかし、パドックに並べられた3台は、第二次世界大戦後のトヨタを語る上で、欠かせないクルマたちであるのは間違いありません。

「古いクルマのことはよく分からない…」方もいらっしゃると思いますので、まずはこの3台について、簡単にご紹介しましょう。

●パブリカ

1950年代中盤、当時の通産省(現・経済産業省)などが検討した国民車構想の影響を受け、’61年に登場したトヨタ初の大衆車。車名は一般公募で募集され、パブリックカーに由来する造語、パブリカが選ばれました。

シンプルなメカニズムとコンパクトなボディが特徴で、サイズは初期のUP10型で全長3570mm、全幅1415mmと、現在の軽自動車ほど。また、搭載されたエンジンは、U型と呼ばれる新開発の強制空冷式水平対向2気筒で、排気量は697cc、最高出力は28馬力でした。

その後、’66年に内外装とメカニズムを大幅にマイナーチェンジ。形式も新たにUP20となりました。精悍さを増したボディには、U型をベースに排気量を790ccまでアップし、最高出力を36馬力とした2U-C型エンジンを搭載しています。

試乗会で展示されていたモデルは、後期型であるUP20。後にパブリカは「スターレット」へと進化。スターレットの実質的な後継モデルは「ヴィッツ」ですから、今回、サーキットに用意されたヴィッツ GRシリーズの偉大なる源流といえるでしょう。

●スポーツ800

’65年に登場したスポーツ800は、パブリカのメカニズムを流用しつつ、空力特性に優れるふたり乗りボディを採用したコンパクトなスポーツカー。ボディサイズは全長3580mm、全幅1465mmと、ほぼ現在の軽自動車と同等の大きさです。

搭載されるエンジンは、UP20型パブリカに先駆けて搭載された、排気量790ccの2U型水平対向2気筒ですが、こちらはツインキャブレターを装備し、最高出力は45馬力を発生します。

4気筒DOHCエンジンを搭載するライバル、ホンダ「S600」、「S800」には、パワーでこそ及ばないものの、軽量かつ空力に勝るスポーツ800は、公道だけでなく、サーキットでも数々の名シーンを演じました。また、往年のスポーツカーやヒストリックカー愛好家には“ヨタハチ”という愛称の方が有名かもしれませんね。

そしてもう1台、試乗会場に用意されていたのは、白×赤×黒にペイントされたレース仕様のスポーツ800。いうまでもなく、カラーリングは新たに発表されたGRシリーズのイメージカラーで、関係者いわく、その名も「スポーツ800 GR CONCEPT」とのこと。

果たして、このヨタハチはどのような意図でつくられたのでしょうか? スポーツ800 GR CONCEPTプロジェクトリーダーの小川裕之さんにうかがいました。

「パブリカとヨタハチの関係というのは、今のGRにそのまま当てはまるんです。パブリカは誰もが乗れる大衆車ですが、ヨタハチはそれをベースにスポーツモデルに仕立てたクルマ。まさにGRの源流は、この2台にあると思うのです。

GRは一般的な市販モデルをベース車にしていますが、求めたのは『スポーツカーらしい気持ちいい乗り味や楽しさ』です。結果的に、ヨタハチはレースでも活躍し、素晴らしい成績を残しました。GRはしっかりした車体や足まわりなど、トヨタがレースフィールドで培ったノウハウを注入したクルマですから、レースもまた、市販車とスポーツカーとをつなぐ役割があると思うのです」

その象徴として、今回の試乗会に白×赤×黒カラーのレース仕様ヨタハチが用意された、という訳です。そしてこのGRヨタハチも、元気よくサーキットを周回していたのですが、2気筒エンジン特有の「パタパタ…」というエンジン音ではなく、「パアーン」と弾けるようなサウンドを響かせていました。「ん!? エンジンや吸排気系にも手が入っているの? そもそも、このヨタハチはどんなヒストリーを持つクルマだろう…」と、筆者の興味をかき立てます。

「このヨタハチは、2015年に関東で発見された1台です。実はオーナーの方が亡くなられて、近くのディーラーが譲り受けたのですが、ご家族の方はこのクルマについてあまりご存知なかったようで…。ただオーナーさんは『とても貴重な1台』と常々話しておられたそうです。そこで我々がシャーシナンバーを調べたところ“UP15-10007”という初期モデルであること、そして、当時のトヨタワークスがレースで走らせた、本物のレーシングカーということが分かりました」(小川さん)

しかし、このクルマが発見された時は、ボディにはホコリが積もり、愛らしい空力ボディはサビで朽ち果て…という状態だったそうです。そのため、当初はただの“痛んだヨタハチ”と思われていたそうですが、当時の資料やオーナーズクラブなどの情報を元に検証した結果、ワークスのレースカーだとの確証を得たのだそうです。

写真/TOYOTA GAZOO Racing Company

もちろん、UP15-10007というシャーシナンバーを聞いたとしても、そのヒストリーを知っているのは、よほどのレースファンか当時の関係者くらいかもしれません。実はこの10007、’66年に開催された「第1回 鈴鹿500キロレース」を無給油で走りきり、見事にワン・ツー・フィニッシュを飾った2台のヨタハチのうちの1台でした。しかも、同レースで84周を4時間11分45秒で走り切り、総合優勝を果たしたワークスドライバー・細谷四方洋のゼッケン2号車に続き、同じく84週を走破し、2位に入った同じくワークスドライバー・田村三夫がドライブした3号車だったのです。

トヨタのスポーツカー史、レース史を彩った黎明期の1台であることが判ると、トヨタ社内では「名車を甦らせよう!」と、レストア計画とスポーツ800 GR CONCEPTプロジェクトが始動。そして、ただ専門部署や業者にレストアを依頼するのではなく、先人たちの努力を知り、彼らの技術や思いをしっかりと受け継ぐべく、自分たちの手を動かすことを選んだのだとか。

「クルマの開発は“人づくり”も大事な仕事です。ベテランから若手へと技術の伝承も欠かせないため、GRの関係者はもちろん、グループ各社やパーツのサプライヤーさんからも参加者を募りました。また、パーツの入手に関しては、オーナーズクラブの協力もいただきました。基本的には、当時の姿を再現すべく、朽ち果てた部分は職人ワザでつくり直しています。そしてエンジンも、当時の高回転型チューニングを採用しています」(小川さん)

こうして多くの人々が携わったレストアですが、資料の少ないレース仕様車ということで、艤装品をはじめ数々の改造跡があり、作業はひと筋縄ではいかなかったとのこと。しかし小川さんによると「クルマは人がつくっているんだ…」と感じること、学ぶことも多かったそうです。そして、クルマとの対話、すなわち五感を使ってクルマを操り、楽しむということのヒントが、このクルマにはたくさん詰まっていたといいます。

一方、ヒストリアン的な視点から見れば「当時の姿、銀色に黄色のストライプという姿に復元すべきでは?」という意見もあるかと思います。早くから歴史的価値を認め、保存されることが多かった欧米のレース車両に比べると、日本のレース黎明期を駆けたクルマたちは、一部を除けば、その後の行方すら分からないというケースも少なくありません。こうした現状を鑑みると、幸いにも発見され、後世のエンジニアにクルマづくり、スポーツカー&レーシングカーづくりのノウハウを伝えたUP15-10007は、まさに第二の人生ならぬ、第二の車生を歩んでいるのかもしれません。

例えば、5年後、10年後に大きく育ったトヨタGRシリーズの偉大なるイコンとなっているのか、また、トヨタ全体の歴史を象徴する1台として再度、オリジナルに復元されるのか…。その辺りはトヨタの判断次第ですが、どのような道をたどるとしても、維持・復元するだけのノウハウは今回のレストア計画とスポーツ800 GR CONCEPTプロジェクトによって得られたことは間違いありませんから、心配は無用、といったところでしょうか。

(文&写真/村田尚之)


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