日産トップガンが語る GT-Rの真実(3)テストドライバーに必要な素養、それは我慢

ーー現在、日産自動車にはテストドライバーの資格を有する方が約1000名いらっしゃるとうかがいました。おふたりは、後進の育成といったお仕事もされているのですか?

加藤:私は、日産アカデミードライビング&テクノロジーという部署でスーパーバイザーを務めている関係で、指導に当たる機会が多いんです。でも松本は、いまだ現役。最前線でGT-Rプロジェクトを担当しながらですから、指導するのはなかなか難しいようです。なので彼とは「そろそろ次世代の育成にも力を入れなきゃね」という話はしています。具体的にいえば、GT-Rを開発できるテストドライバーですね。もちろん、かなり厳しい仕事だと思いますよ。私と松本は好きでGT-Rをやってきましたけどね(笑)。

ーー日産自動車は、コンパクトカーからSUV、スポーツカーまで、幅広いラインナップを展開していますが、例えば、テストドライバー資格の最上位“AS”を取得されている方でも「マーチ」をテストする機会はあるのでしょうか?

加藤:もちろんありますよ。例えば“高速耐久”という試験において、最高速度の8割くらいで連続走行するケースがあるのですが、それはASの人間も担当しています。

松本:私も担当しました。耐久性をチェックする部門にいた頃、“連続高速”という試験項目があり、高速周回路をずっと走っていました。最後に担当したのは、S130型の「フェアレディZ」だったかな。私の経験の中で初めて200km/h以上出したのは、その試験でしたね。

ーーそんな日産自動車を代表するテストドライバーのおふたりは、そもそも、どうしてテストドライバーという職業を選ばれたのでしょうか?

加藤:私は秋田県の出身で、16歳の時に横浜にあった日産工業専門学校という企業内学校に入校しました。当時は8学科あったのですが、私が選んだのは自動車科。クルマが大好きで、とにかくクルマに乗りたかったのですが、どうすればテストドライバーになれるのか、といったことまでは、まだよく理解できていませんでした。

実家には、マツダのオート三輪があったのですが、ぐずってる時も、そのエンジンをかけて聞かせれば泣き止む、というような子供だったそうです。父が所有するバイクやクルマを見ているうちに、物心が付く頃には、自然と機械好き、クルマ好きになっていました。

そして中学生の頃、梶山季之さんの小説『黒の試走車』を通じ、自動車メーカーにはテストドライバーという仕事があると知りました。あとは、サファリラリーやモンテカルロラリーを走っていた、濃い赤のクルマがなんともカッコよく見えたんです。今思えば、それはS30 フェアレディZと510型の「ブルーバード」だったのですが、あの2台には本当に、少年時代の私の胸を打つものがあったのです。

でも、そうやって意気揚々と入校したというのに、自動車の運転免許を取れなかったんですよ。在校生には免許を取らせない、というのが学校の方針だったので。それなのに、3年生になると、日産自動車での実習で自動車整備のイロハを学ぶんです。毎日うずうずしていましたよ(苦笑)。なので、職員室へ行くたびに「実験部に行きたいです!」と猛烈にアピールしていました。

ーーその願いどおり、実験部に配属となったのですね?

加藤:晴れて、運転免許証を持たない若造が、実験部へと配属になりました! さすがに前代未聞だったみたいですよ。何しろ、上司にいわれた最初の言葉は「免許とってこい!」でしたから。今にして思えば、当時の上司らは困ったでしょうね。免許もない、クルマを運転したこともない人間を、何に使うんだ!?…って(苦笑)。でも、職場の皆さんには本当にかわいがってもらいました。

ーー実験部に配属されて、そこでドライビングテクニックを磨かれたのですか?

加藤:私は松本とは正反対なんです。彼は自分でラリー競技に参戦し、そこでひたすら腕を磨いた。対する私は、免許がない。よくいえば、運転については純真無垢でした。

そして、私に運転を教えてくれたのは、プロのドライバー。それも、テストドライバーというとびきりのプロです。第一線で活躍するテストドライバーたちが、代わる代わる私の隣に乗ってくれて「クラッチ操作はこう…、ハンドル操作はこう…」と教えてくれたんですよ。中には厳しい人もいましたが、忙しい仕事の合間を縫って教えてくれたので、私がスムーズな運転さえ心掛けていれば、うとうとと居眠りを始めてくれるんです。その時、できるだけ怒られないよう頑張ったことで、結果的に、スムーズなドライビングが身についたのかもしれません(苦笑)。

ーーでは、今度は松本さんがテストドライバーになられた経緯を教えてください。

松本:私は栃木県の出身で、地元の学校を卒業した後、自動車ディーラーに就職し、1年半くらいメカニックの仕事をしていました。その後、別の自動車整備会社に転職し、しばらく整備士をしていたのですが、ある時、叔父が日産自動車の人材募集広告を持ってきたのです。内容は、クルマの試作と実験のスタッフ募集でした。ちょうど当時は、排出ガス規制が強化されたばかりの頃で、人手が足りなかったんでしょうね。ちょうど私が20歳の頃です。

今にして思えば、幼い頃からエンジンやメカが大好きでした。ラジコンカーやバイクを分解しては組み直し、ということを繰り返しやっていましたからね。18歳でクルマの運転免許を取ってからは、クルマのエンジンを自分でバラし、それをまた組み直す、ということが楽しくてしょうがありませんでした。本当に好きだったんですね。

そして当時、ラリーに参戦していた先輩の影響で、私も免許を取ってすぐラリーを始めたんです。日産自動車に入社してからも、休日はもっぱら、ラリーに参戦していました(苦笑)。そして、R32 GT-Rの開発に携わった時に「これは速い!」と感動し、デビューしたてのGT-Rを全日本のダートトライアルに持ち込んだのです。サーキットでも速かったけれど、R32はダートラでも速かった! 実はその後、R33 GT-Rでもダートラ用マシンを製作したのですが、ちょうどいいサイズのタイヤが販売中止となってしまい、泣く泣く参戦をあきらめました。

ーーご自身でマシンを製作されるのは、何か理由があったのでしょうか?

松本:速く走るためには、ドライビングスキルはもちろん重要ですが、メカニズムの知識も同じくらい重要なんです。自分でマシンを製作し、レースやラリーの本番で実験する、というのが、私は根っから好きなんでしょうね。もしかしたら、他人の腕を信用していなかったのかもしれません(苦笑)。でも、自分の手でマシンを組むようになって以降、何かクルマにトラブルが発生した時も、運転しながら「あ、あそこがこうなったな…」と推測できるようになりました。

ーー松本さんは当初から、栃木のテストコースに配属されたのですか?

松本:そうです。私の最初の仕事は、810型ブルーバードの耐久走行でした。エンジンとパワートレーンのチェックが主な内容で、決められたパターンで走らせるという内容でした。例えば、1速で7000回転まで引っ張って、2速でまた7000回転まで引っ張る…といったことを、延々と繰り返していたんです。

ふたりがペアを組み、それぞれ30分ずつ、交代で行う項目なのですが、クルマの寿命を想定し、昼夜24時間体制で、ひと月くらい延々と続けるのです。そうやって、エンジンの耐久性、オイルの消費量、パワートレーンの耐久性などを徹底的にチェックしました。そして、想定した距離を走り終えると、今度はクルマをバラバラにし、ギヤの減りやベアリングのガタツキなどをチェックする、というのが、入社して最初に与えられた仕事でしたね。

加藤:私は最初、神奈川の追浜にあるテストコースに配属され、その後、東京の村山テストコースに異動しました。なので当時、松本とは面識がなかったんです。1988年に栃木へ転勤となった際に初めて「松本っていう同い年の変わり者がいる」という話を聞き、その存在に気づいたくらいです。

今でこそ日産自動車は、すべての車種のテストを栃木のテストコースで行っていますが、かつては“村山”、“追浜”、“栃木”というテストコースごとにそれぞれ流派があり、それぞれの交流はほとんどありませんでした。担当するプロジェクトが、例えば、同じ810型ブルーバードでも、松本は耐久、私はハンドリングと乗り心地といった具合に、コースごとに異なっていましたからね。ただ、松本は初めて会った時に、不思議と同じニオイがしたんですよ。だから今でも、彼とは馬が合うんでしょうね(苦笑)。

ーーおふたりがいっしょに開発された、思い出のクルマはありますか?

加藤:やはり、R34 GT-Rでしょうね。810型ブルーバードは、互いの存在を知らないまま同じクルマを担当していただけだし、R32 GT-Rも、いっしょに開発したといえば間違いではないですが、部署自体は異なっていましたからね。

スカイライン GT-R(R34)

もちろんR32の頃は、すでに彼の存在は知っていましたよ。それに、自らクルマをバラせる腕を持った人間なので、何が起きるか分からないような重要なテストの時は、信頼して任せていました。

松本とは年齢や学年が同じ、ということもありますが、仕事でもプライベートでも、ここまでいいたい放題やれる相手というのは、私にとっては彼しかいませんね。私のことを変わり者だと思っておられる方が多いようですが、本当は松本の方が分別ない人間なんです。テストも2ドアのモデルしか担当しませんしね(笑)。

【改ページ】テストドライバーに必要な素養は「速く走れること」ではない

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